昭和52年07月27日 朝の御理解
御理解 第35節
「信心は日々の改まりが第一じゃ、毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大みそかと思い、夜が明けたら元日と思うて、日々嬉しゅう暮せば、家内に不和はない。」
信心は日々の改まりが第一、信心は家内に不和のなきが元、35節にはお道の信心んお三代の所で信心は日々の改まりが第一じゃ、家内に不和はないと、元日と思うて日々嬉しゅう暮らせば家内に不和はないと、家庭に不和がなきもとなりと、本当に思うのですね、信心にお互いが家庭に不和がある様な事はあってはならないと、お互いにとっても一家には問題は色々ありますけれども、けれどもみんながその問題( ? )。
昨日研修の時に皆さんがそれぞれ、合楽理念、合楽理念と言われております、合楽理念のどこを皆が頂いておるのだろうか、どこに焦点においてこれだけはと、なら貫いておれるものがあるのだろうか、いうなら期待しておりますが皆さんはどうでしょうか、合楽理念のそれこそ( ? )合楽理念のどこを、いや皆なそれを実行しておるといいやなおさら有り難い、これだけはと思うて、これだけはと実行する、ですから問題はね、成り行きを大事にさせて頂いておりますとこういう。
なんと言っても、合楽理念の矢張り中心に、それは今始まった事ではない、合楽の信心が始まってこの方、椛目合楽を通して成り行き大事にする、全ての事に御の字をつけて、事柄として頂くと。だから修行生の皆さんの場合なんかは、例えばこれはあんがい見やすく、これは( ? )例えばなら、お店ならお店を持つと言う事になりますよね、これはも大変いったら難しい事、様々な問題が時事刻々と変わって行くのですからね、これは商売人でも同じ事でも言える事でも同じですけれども。
けれどもならここで修行しておる人達の場合なんかはそれこそが、日常の事なんかは問題がない事はないでしょうけれども、問題というても(?)という例えば、自分が教会長もまして教会長として、そう言う事になると。皆の場合には一番それが言うならば見やすい、そこが分かる成り行きを大切にする事、中に一人信行に向かうだから、どちらに致しましてもですならお互いの、まあ皆さんの場合は、ならこれは矢張り信心と徹する事なんですから、ただ知っとるだけではいかんのです。
本気で成り行きを大事にする、信行をもうまあいうならば、今合楽で信心の稽古を本気でしている人達が大祓い信行をしなかったり、信行を疎かにしておったり、成り行きを大事にしなかったりしたら、もう大体修行しとって思うけれども、大祓い信行はどうですかと聞いたら、皆が一斉にはいやっておりますという人は一人もなかった、しております、しておりますという、まあいう積りでしょうけれども。
あの信行も普段どうりもうこれはね、あの大祓い信行の、もう合楽で大祓い信行というのはね、もうこれは絶対なものでなけりゃいかんです、神様を拝んでるからにはね、神様を頂いておるからにはね、大祓い信行だけは欠かしてはならん、つまり信行ですから心にかけつけなければいけないんです、ね、成り行きを大事にする、もうこの位な事はちゃんと身に付かなければ行けない。
先日熊谷さんが本当に信行、例え親先生がなさることは、お風呂に入っるにもタオルをきちっとこうなさるという事を、それぐらいおかげを頂いて、いつも私しそうさして頂くタオルはのりを付けた様にキチットしております。そこでこの頃では湯桶半分と言う事を実行させて頂こうと一生懸命勤めておりますけれども、それがもう迂闊にして忘れておる、何べんも何べんも繰り返す。
だからもうそれでお終いにしたら矢張り身に着かない、いうならこの湯桶半分という事を稽古中だ、もう本当に簡単な事ですけれども、言うならばそんなにお互いの心の中には迂闊なものがおります。確かに一杯目だけは湯桶半分じゃったけど、二杯目にはもうガバットこう使うと。こんな話をしておりますと例えばそれが、例えばするならそれが自分の血になり肉になり、もうそれが習慣になってしまう、まあ反発するようですけれども、そうなったら湯桶半分も値打ちがないですねと言う様な事をいう。
だから親先生の場合はどうでしょうかとこう言う。是はどんなに血になり肉にしましてもです、じゃそこにでも湯桶半分しか使わんという、もうあの身に着いておりましても、こん時にチラッとおかげを頂いておる自分が有り難くなるといった、絶対もう習慣になるというが事はないそれは私の心の中に信心、さらな信心が息ついておるからだと。だから勿論習慣になるとか、マンネリと言う事ではこんな詰らない話はない。
あなた達はここの月例祭とみんないうて出かける時に、まん前にハンドルを握る前に御祈念をしよるか降りた所で、またお礼をいいよるか、そんならもう信心しよらんと同じ事じゃないかと私はいいよる、今あんた方が信行して,あれだけじゃもう表行が全廃という事になっとるですから、その修行ばっか本気でここが出けなかったらあんた、何を修行しよる事になるかと私は申します。
もうこれは皆さん本当にそうです、もういま合楽ではこの表行全廃信行一つ、もういうならば家業の行の中にというても、信行がなからなければ家業の行にはなりません、一日を締めくくってしめるときに、こんにちも結構な家業の行をさせて頂いたと有り難いというお礼の言葉でてこんならば、ただ一生懸命働いたからと家業の行したっていう事にならんのだ目が荒いと私は思います。
けれどもそのここまでの中に、その湯桶半分という事を一生懸命ね努めておっても、あらっと又迂闊な事があるからと言うてそのまま、それではそのまま是はもうどうしようもなかとも思ったらそれまで、けれどもそれがやっぱり自分の身に着くまでは、どんなに身に着いても、その気になってもいつになっても、信心さらな信心と言った事は。そうして言うならば、お水ならお水を大切にさせて頂いておると言う事、その事が有難いのだ、マンネリにはならん、ね。
ハンドルを握る時に拝む事、乗せて貰う時に拝む事の、降りてから回れ右をして、自動車を拝む事も、もう実を言うたら私の場合は、もう自動車に乗っとる時からずうっとお礼を言いよるけんで忘れる筈は絶対ないと私は思うとる。いうなら後先だけでも行かんのです本当は、ね、もう金光様のご信心をさせて頂く、いや合楽でご信心を頂くならね、もうこの信行、成り行きを大事にしておる。是だけはもう本当に私は聞かんでもです、もうそれは出来とるという事にならなければ合楽通いな値打ちはないです。
これでだけ合楽で修行しておる者が、迂闊にしておると言った様な事じゃったら、合楽で修行しておる値打ちがないです、他に修行はないのだから合楽には。だから若先生がそれを申しますから、とにかく私と一緒に御飯を頂く時が一番よう分かろうがのうと私がいう、お風呂に入っても解ると同時にね、私はなら御神訓を唱えもしなければ、ごちそうも言わないけれどもね。私はお食事の前には必ず御祈念です、お食事が終わったらまた必ず御祈念です。
だから御神訓を唱えただけではそれこそもうただ頂きます御馳走様だけでは、もうそれはまあ本当にマンネリ化します、只今からお食事をさせて頂きますと、おそ末期無礼がない様に頂きよったら、どうぞ血に肉になって食物がかえって体をさわる様な事のない様に食べさせて頂きました。少し飲みすぎましたどうぞそこん所のお粗末ご無礼をお詫びさせて頂かなければ、その御祈念をしなければ私の食事は済んだという事にならん、なら勝彦さん私と一緒に御飯を頂きよる時にはそうじゃろうのと私がいうやろ。
他に修行はないのだから、お互い信心にかかっとるのだから、それがたったのなんですかね、だからそれが出けとらんならば、それをなら改まる事に一生懸命精進をするという事が日々の改まりなんだ。なら熊谷さんが湯桶半分という事に毎日今取り組んでおられるという。取組んどるかの様に見えとるけれども、もう2杯目3杯目にもう忘れておる、これではまだ自分のものになってないと言うて、改まる時に一生懸命ね。
そう言う様な生き方が出来る時に、言うならばです人を責めたり、家庭の者にごたごた言う様な事では家庭に不和のない、一人一人がそういう信心になっとったらないと思う、それは元日の心にならなくても、大晦日の心にもしならなくても、ね、今合楽で言われる成り行きを大事にする。素敵な事に御教えを頂いて、信行をさせて頂くと信行は心の中にかけ続けたと、勿論大祓い信行毎日かかした事がない、信心をしよりますというのじゃから、それだけトットトできなきゃね。
とりわけなら合楽で修行を、いうなら本当にお道の教師を目指させてもろうての修行にかけている者はもう掛り切っておかげを頂かなければ出けんというならば、これはこげんなん不熱心な事はないと。昨日学院から電話がかかってきた、あなたの所の〇〇修行生が、どうもこの頃他の先生方にも目に止っとるが、どうもいけない先日の夜はお酒を飲んであばれたと、教会長であるあなたに一言注意をしときますという電話でした、もう平身低頭で、スンマセンスンマセンという他にない。
だからあなたからどうか言うてやって下さいと言われた、だから私は言うてやろうとは思いませんけれども、まあ神様にお願いをさせて頂いた、そしたらね例えばお花を活けるにしてもね、真っ直ぐかつばっかりじゃ、お花にはならんと言う事です、ちったよごだともともおらなきゃ、ね、だから家庭の中でもそういう気持ちで、例えば主人なら主人が、自分の思いようにせなでけんと言うところに責めたり、言うならば文句を言うたと言う事になるのです。
家庭の中にも5人おりゃ5人様々です、ようごたるともおりゃ真っ直ぐかつもおる、ちっとばかり曲っとる人もおる、親の言う事いっちょん聞かん、その言う事聞かん人がおる事が素晴らしいのです、皆んな親の言う事聞いてから、皆んな親と同じ事になったら、結局あんたと同じのしか出来んじゃん、ね、いうならあんた自身ば自分で思うて見て下さい、これでよいと思うとらんでしょうもん、と言う事になる。
だからほんとにあの、大きな信心と言う様な事はそう言う事を本当に分からなければ大きな信心はでけんと思うのですね、お前があげんじゃからいかん、こうじゃからいかん、どげんちゅうてもよか、学院であったら学院の一つの決まりなら、決まりがそのピシーット決まりの中にいれてしまわなければ、それこそチョコットでもはみだした、そのあんたがの修行生は、こんな事じゃ乱すと言った様な事に言う訳です。
矢張り人間じゃけん、どげんとでんおるがと言うぐらいな、そのまあ太っ腹と言うのでしょうか、大きな心で言わばくだけると言ったような事に拘るという、そういった気持ちが出てこなければ出来る事じゃない、大きくなって行く為には、本当にそういう信心が身に着かなければならん、それでいてその根本になる所は評価と言う事に、愈々成り行きを大事にすると言う事。
愈々信行にもう本当に四六時中取り組んでおくと言う事、どんな場合でも自分の心が心身からな心の状態を頂く事の為に、まず自分が拝んでおる神様が生き生きとしてきなさなければ自分の心は生き生きしてこん。大祓い信行というのは、神様へ御神飯を差し上げるようなものだと、栄養失調になってござった神様が生き生きと見えると言われております、はあ有り難い神様が生きてござる、証拠にはもう何かハットするおいさみを頂くと言うように、宅の神様が生き生きとして見える、ね。
はあ神様が生き生きと見えると思よったら、自分の心までも生き生きしてくる事に気付かせて頂くと言うのが大祓い信行のねらい、ですからもう何時も新らな心が頂けておる、だからマンネリになる心配がない。これは私共に御教えの矛先に最小限度これだけの事はでけておるという、これは合楽の信奉者が全部が出きなけりゃならない、成り行きを大事にする事、信行を頂きつづける事。
大祓い信行は欠かしてはならない事、私はそういう心がいうなら、教祖がおっしゃっておる元日の心であったり大晦日の心である、確かにそういうのじゃないかと思うのです。今日は正月だから文句を言うてはならんと言うようなものではなくて。もう言わんで済む私が出来上がっていくのです、皆さんどうでしょうか、今頂いた様な事が出けておられるでしょうか、なら合楽にあるものは神様のもんでもありません、けれどもせめてこれだけ出けなければ。
それで私は昨日学院からそういう電話を受けまして、その人だけに学院からこんなの事をいうてきたといいや、言うたって、私は効果があるとは思われませんから、けれどもまあ、一人一人に同じ文句をこう言うハガキか手紙を出そうと思うた。これはいま学院に行っております、早川と言う修行生があちらに参りまして何日目かに頂いたという「楽な時の姿勢をくずさねば大きくなる、座りかぶと、お道の先生は座りの良いが上出来な」という座りかぶと。
金光様の先生は座りのよかじゃなかりゃほんな値打ちはなか、もう年中もう立とうごとしてして、いわゆる尻火傷しとるすぶたとおなし、そげなんこっちゃもう金光様の先生を目指す資格がない。楽ん時に姿勢を崩さねば大きくなる、皆が願っておる事は、なら教師なら教師におとりたてお下さいという願い持っておるのだから、まあその事だけでもハイッて一人だけチョッとあてつけたごつなるけん、六人の者にみんなそれを出すことと私は思いついた。
大みそかと思うとか元日と思い、いう事を本当に信心で頂いたら、今日皆さんに聞いて頂いたような所になるんです。1に大祓い信行成り行きを愈々大切にしていく、もうそれならば日々の改まりは勿論の事、言うならば家庭に不和のないおかげが間違いなく頂ける、家庭に不和のなきが元、それはおかげを頂く受け物の元にもなる事ですから、人じゃない、自分自身こんなによごうどる事。
どうこうじゃないむしろそういうとも、生かして自分の心の中に頂いていく人の不浄就を見て、我が身の不浄就になる事と教えておられます。もう一遍合楽にご縁を頂いておる人達が合楽理念、合楽理念と言われるが、合楽理念の確立と言う事が言われるが、その確立に、いわゆる本気で取り組んでおるかどうかを確かめる。愈々合楽理念の確立を願われていかなければ助からんですね。
どうぞ。